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母が亡くなって11年目の春 [50代の母を看取った後で・・・]

  早いもので・・・今年、母が亡くなってから11年目のを迎えます。4/15が母の命日です。   11年目のあの日・・・肝硬変から肝臓癌へと進行していた母は入院中でした。入院する1ヶ月前くらいに一週間程でしたが私の自宅へ泊まりにきたのが、母の「これが、最後になるかもしれないね。」の言葉通りになる日が近づいていました・・・頭の中では、私も覚悟はしていました。でも・・・少しでも長く、もう少し長く生きてほしいと言う思いから目の前の現実を遠ざけたかった・・・少しでも体調が落ちついたら( ´艸`)兄弟で協力しあってリフォームした妹夫婦の自宅での生活が待ってると思いたかったし、最後に母がリクエストしてくれた 「四国へ行きたい[黒ハート]美味しい讃岐うどんが食べたい( ̄∇ ̄)」の願いを叶えるためGWの計画も立てていた。   それもこれも、医師の余命宣告「もって一年・・・早くて半年。」の言葉を信じての事だったが日に日に弱ってく母。お腹には何リットルもの腹水が溜まり抜いてもらう日々。  そして・・・4/14早朝、珍しく入院中の母から電話があった。丁度土曜日の朝・・・ その日は、長男のリハビリの為、母の病院近くを通る・・・。「今日は、寄ってくれるんか?」 私の主人は、トレーラの運転手で不規則勤務な為、自宅から3時間かかって長男を病院に連れて行っても、次の日の勤務によってはトンボ帰りの日もあるのだが・・・妙に母の電話が気になって、長男の通院後~母の入院する病院をまわるルートで帰る事にした。

  母の病室に入ると、ベットの上座って出迎えてくれた母。 この頃には、一日の水分摂取制限まででていて・・・体の大きいかったはずの母が小さく感じられ、声もか細く・・・よく耳をすまさないと聞き取りにくくなっていた(。>ω<。) 母の「飲みたい」とリクエストのあったジョアを売店まで買いに行ったり・・・でも、まさか・・・これが、母と話せる最後だったなんて・・・その晩、大量にノドの奥に出来たポリープが出血(。>ω<。)妹 が付き添ってくれてたようですが・・・朝方、昏睡状態・・・私が駆けつけた頃には、呼びかけに「うん」とうなづけるが目は開かない状態で,その後、二度目の出血を起こし・・・永眠・・・ 4/14、私と入れ違いに来てくれた、母のお姉さんが、母を車イスに乗せ満開の桜を見せてくれてたらしい。看護師にはかなり止められたらしいが[あせあせ(飛び散る汗)]最期に見られて良かったと思う・・・・    毎年・・・この桜の咲く頃になると母を思いだす。 何処を探してもいない母が・・・何処かにいてるような・・・ 母とは、本当、色んな事あったなぁ~ 。ケンカもしたかもしれんけど・・・ 障害を持った子の母になった私をいつも励ましてくれた[黒ハート]長男が病気になる前の元気だった長男の話を出来るのも母とだけだった。最期まで、「頑張っていくんやで!!」って励ましてエールを送ってくれた母でした。  その時に流れてたのが・・・コブクロ[るんるん]の《蕾》 今でも、蕾の歌詞に母の姿が重なり合って自然と 涙が溢れてくるんです。そうだ[ひらめき]母も歌詞の中身のように何度も何度もエールくれてたなぁ~って 親孝行は、いつだって出来る!!って思うかもしれないけれど・・・こうして母と別れて・・・自分なりに十分にやってきたつもりでも、まだまだ、やってあげたかった事は沢山ある( ´艸`)でも・・・戻ることのできない時間・・・読んでくれてる皆さんは後悔しないでほしい。それくらい、今のうちに、いっぱい話してほしいし、思い出も沢山つくっておいてほしいって思います。

体に限界がくるまで・・・ [50代の母を看取った後で・・・]

 母は、実に良く頑張った!! 心細い時に“離婚”をつきつけた父。  私の長男が、インフルエンザと言う大きな病気で障害状態になった時、私の助けになりたい!!とヘルパーの勉強をはじめたんです!!驚きましたね(゜Д゜;) 驚くと共に、病気の母がこんなにも頑張ってるんだから、負けてはあかん!!と何度も力をもらいました( ´艸`)亡くなった後、出てきた遺品の中にはガイドヘルパーの教科書まで(゜Д゜;) 母は、大きな病気を抱えながらも病と闘い!!老人ホームで夜勤などもこなしていました。この、底知れぬパワー( ̄∇ ̄) そして、介護の話では「介護の仕事は奥が深い、もっと介護の仕事を続けていたかった。」と・・・
 そして今、母の思いを胸に、私が介護の道に進んで7年・・・母の果たせなかった介護の更なる専門分野へスキルアップしていこうと思ってます。
タグ:介護の道

母との思い出 [50代の母を看取った後で・・・]

 厳しい母ではありましたが・・・大変社交的で明るく、誰とでも仲良くなれる母でした。病気がみつかる ずっと前の私が結婚するまでは、良く夜更かしして遅くまで色々な話してたよね。
いつだったか、夜中に「お腹すいたね~」って焼きそば作って一緒に食べた事もあったし・・・一緒に呑んだ事もあったよね(≧∀≦)
 今の私が、趣味で編み物が出来るのも・・・母が記号を教えてくれたからだよ( ´艸`)いつだったか、顔つきあわせて1000ピースのパズルにも挑戦したよね。最後の1ピースになった時に、はめ込み式をするんだ!!覚えてる?!あの頃、楽しかったなぁ~[るんるん] あれから、2000ピースのパズルに独りで挑戦したんだよ[黒ハート]
 結婚して子供が産まれてからも、色々,相談にのってくれたよね・・・母である私 の事が大好きな長男が2歳の時、大病して意識が戻らなかった時も、心配して病院まで電話してきてくれたよね・・・お母さんの病気の方がもっともっと大変だったろうに・・・一時間半もの距離を車を飛ばして会いにきてくれたよね。大好きな母である私の事を忘れ、重度の障害状態になった時も、「おばあさんが代わってあげたい!!って何度も私と泣いてくれたよね・・・あの頃の記憶は、私自身つらい日々で あまり覚えてないけれど、一緒に泣いてくれたのは覚えてるょ。

 結婚してから、旅行らしい旅行をしてない母を連れて色々なところへ行ったよね( ´艸`)

「お母さん、飛行機に乗ったことないんやって!!」

って言ってたから、飛行機に乗って九州へも行ったよね( ´艸`)お母さん覚えてる?阿蘇山とか地獄巡りしてきたよね・・・南紀白浜にも行ったよね覚えてる?!行く当日になって長女が微熱だしたんだけど・・・母の病気の事を考えると、一回でも多く母との思い出作っておきたかったんだ。
でも・・・それでも足りない[あせあせ(飛び散る汗)]最後のリクエストだった「四国へ讃岐うどん食べに行きたい[黒ハート]って夢叶えてあげる事出来なかった。:゚(;´∩`;)゚:。もっと早くに、計画しておけばよかった。
 母が医師から余命宣告、《半年から一年》って告げられてから一ヶ月半だょ・・・早すぎるよ(。>ω<。)  それでも母は、「大丈夫!!大丈夫!!」って生きよう!!GWには四国へ行く!!って思ってたんだ・・・親孝行なんて、いつでも出来るって思ってた・・・それでも、十分に満足できる親孝行ってあるのかな・・・
最後の時を満足に過ごせたのだろうか?問いかけても問いかけても答えは返ってこないけど、日々、母との思い出を抱きしめて生きてるよ。

母の病気が見つかる [50代の母を看取った後で・・・]

 私の母は、父と結婚してから 父の自営の鉄工所の手伝いをしてました。そのため、20数年まともな健康診断を受けた事のなかった母が虫歯になり歯を抜いてもらったのですが・・・抜いた後、一晩中出血が止まらなかったらしく、当時、看護士で働いていた妹に「病院でスグに診てもらって!!」と言われ診てもらった病院で《C型肝炎》がみつかったんです。しかも、長年、父の仕事を手伝いまともな健康診断を受けてなかった母の体は、C型肝炎から肝硬変と進行していました。もはやC型肝炎の治療のための注射の効果が期待出来ないところまで進行してしまっていたのでした(。>ω<。)
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しかし何もしないよりはC型肝炎治療のための注射を始めました。20数年病気らしい病気をしてこなかったので・・・もしかしたら、前の段階のC型肝炎 の注射の効果があるかもしれない( ´艸`)と生きる希望を持って。
 その頃の母は、父の手伝いである自営業の仕事はやめていました。前々からも父と母は仲が悪くって
よく喧嘩していたので、手伝う事をやめ外へ働き行くようになっていました。
本当、その頃の母は生き生きしてましたね(≧∀≦)こっちでみていても気持ちがいいくらい輝いていました[ぴかぴか(新しい)]それだけ、父の元で働く母は大変だったんだと思います。一つ間違えるとスパナ等投げつけてくる人でしたから・・・それにしても、男性と言うものは身勝手なものだなぁ~。全ての男性に“身勝手”と言う言葉は当てはまらないかもしれませんが・・・父が、癌で入院していた時は母が献身的に看病し、自営の仕事を切り盛りしていたと言うのに・・・
母が病気になったとたん、父は「第二の人生をはじめたいから・・・」と離婚して再婚。
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 そんな中の、闘病生活は・・・やるせなさとか辛いところもあったと思います。幸いににも、C型肝炎に施す注射は最初のうちは効果があったようで進行を押さえる事ができていたようです。

 C型肝炎をどこで感染?
 大きな病気一つしなかった母が何故?
どうやら、3番目の子・・・私の妹を出産した後、胎盤が上手くはずれず大出血し死にかけたそうです。
その時に、輸血をしてもらって一命を取り留めたらしいが、その中にC型肝炎ウィルスが入っていたと考えられます。
 後に、「お母さんは、OOを産んだ時に死んでたかもしれのんや、そんなこと思ったら長生きできた・・・あん時に死んでたら悔いはあるけど、今やったら悔いはない。」って・・・

悔いがないわけない・・・まだ50代前半やったし[あせあせ(飛び散る汗)]
子供が手を離れて、孫が産まれて、自分の好きな事が出来て・・・孫の成長を何より楽しむ事が出来てって時に・・・命の期限が決められるんだ・・・。
 そして、今、私の年齢が後10年もすれば・・・母親と同じ年齢を迎える。どんな気持ちだったんだろう?!30数年連れ添ったパートナーに裏切られたこと、生きていたい!!と言う思いが叶わない現実・・・非常に辛く苦しい日もあったようですが最後まで闘いました。
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はじめに [50代の母を看取った後で・・・]

 初めまして(*^▽^*)  私は、43歳の主婦です。既に私には、母はいません。今から9年前、母は56歳でC型肝炎による肝硬変、肝臓ガンの闘病の末・・・永眠しました。とても、明るく活発な母でした。今だに亡くなった事が信じられない時があります。ふっ と「遊びにきたでっ」ってやってきそうな・・・それくらい存在感のある母でした。私が、こうして自分の気持ちを文章として書くきっかけをくれたのも母の言葉でした。私の結婚式に書いた両親への手紙を凄く褒めてくれて[黒ハート]長男がインフルエンザ脳症となり重度の障害状態になった時には、「ネットで体験談を書くような事をしたりしたらどう?!気が紛れるかもよ。」と言ってくれてました。その時には、ネット環境は我が家には無くって聞き流していたのですが・・・・3年前より、ようやく我が家にもネット環境が整いました。そして、思いだした母の言葉・・・闘病生活を続けていた母の恐れていた事・・・それは、自分が生きていた証が忘れられてしまうのが怖い(゚Д゚)ノと何度も言っていました。病気になる前は、普通におばあちゃんになるもの・・・初孫である私の長女の成人式まで、楽勝で生きれるものと信じていたはずです。その信じていたことが、C型肝炎となり肝硬変となり・・・命の期限の宣告を受けてしまった母。あれから・・・9年たってしまいましたが、そうだ!! 母の事を記憶に残そうと思いました。少しずつあの頃を思い出しながら・・・母の生きた証を少しづつ書き綴っていこうと思います。よろしくお願いします。
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